普段、全英オープン開催までに要する計画期間は4年程度とされている。開催コース決定から開幕日に最初の組がティショットを打つまでには、オリンピックと同じサイクルが最適なのである。
しかしながら、第148回全英オープンを計画するのに必要としたのは26年という長い年月だった。果報を寝て待ち続けたすえに、最高の結果が訪れたのである。
1951年にマックス・フォークナーがクラレットジャグを掲げて18番グリーンを下りた際には、その後68年間もロイヤルポートラッシュに全英オープンが戻ってこないとは誰も考えていなかった。
苦戦
ロイヤルポートラッシュゴルフクラブ関係者は、同地にクラレットジャグを戻したいと長年思ってきた。そのために必要なのは、関係者たちの根気とため息が漏れるほどの美しいコース。それのみだったはずだ。しかし、である。
「1980年から90年代初頭にかけて、北アイルランドを訪れたいという人は皆無でした。とりわけ、ゴルフをするためなんて、あり得ませんよ」
こう語るのは同GCで35年間にわたりクラブセクレタリーを務める、ウィルマ・エルスキン氏である。
「我々は苦戦を強いられていました。メンバーも高齢化し、コース上には人がいませんでした。さらにそのコースでさえも、いくつか大きな問題がありました。ある時なんて、グリーンキーパーがグリーンを張り替える際に、その下からべとべとのヘドロのようなものがたくさん出てきました!」
それだけに、同コースで全英オープンを開催するなど、当時は夢のまた夢だった。とはいえ、始めなければ何も起きない。ゴルフ界で最古のメジャーを開催したいのであれば、イベントを開催しなくてはならなかった。
アマチュア選手権
1993年に33年ぶりにアマチュア選手権がアントリムの海岸に戻ってきた際、エルスキンは死に物狂いで働かなければならなかった。さらにその2年後には、全英シニアオープンが開催される。
「1960年以来となるアマチュア選手権を開催したのは、1993年のことでした。70年代、80年代とまるで大会を開催していませんでした」
「しかし当時のR&Aのセクレタリーだったサー・マイケル・ボナラックが、私たちにアマチュア選手権を開催してみてはどうだろうと、招待してくれました。すべてはそこから始まったのです」
「そしてR&Aは、我々がこういったイベントの開催能力を満たしていることを確認したのです。多くのギャラリーを呼び込み、リー・ウェストウッドのような好選手がプレーするコースであると分かりました。その後全英シニアを開催したのです」
「キングことアーノルド・パーマーやがプレーし、マックス・フォークナーの義理の息子であるブライアン・バーンズは1995、96年と2年連続優勝を達成しました。感動的な場面でした」
「1995年にはマックス・フォークナーもこの地を訪れています。51年に優勝して以来、初めて戻ってきたのです。その後も全英シニアオープンを1999年まで行い、再び戻ってきたのは2004年のことでした。ゴルフコースのステータスを維持するためには、こういったビッグイベントが必要だと分かったのです」
「そして今の私たちがあります。世界でも最大級のスポーツイベントを開催する場所として、復活したのです」
計画
ゆっくりと、しかし確実、ロイヤルポートラッシュは昔の名声を取り戻しつつあった。ジャイアンツコーズウェイとダンルース城、さらにスコットランドの西側にある島々を望む場所にあり、加えて極めて戦略的で挑戦的なゴルフコースとなれば、全英オープン開催コース復帰への道筋は自ずと見えてくるはずだ。
全英シニアオープンの開催コースがローテーション制になると同時に、ロイヤルポートラッシュで行われるビッグイベントの数も少なくなっていった。そのためエルスキンは、再びアマチュア大会を積極的に迎え入れ、同時に将来的に全英オープンをロイヤルポートラッシュで開催すると誓ったのである。
その時2006年。ロイヤルリバプールが39年ぶりに全英オープン開催会場のラインナップに戻った事実も、エルスキンの決意をより固くした。
北へ
エルスキンが、主催者の目を向けるために段階的に必要と考えたのは、まずアイルランドオープンを南から北アイルランドに移動させることだった。
2011年12月。欧州ツアーと大会開催に合意し、翌年6月にはジェイミー・ドナルドソンが優勝している。
「展開が非常に早かったです。ですが、集中して行うことにより、みんながより結束して協力するようになり、最善の結果を導くこともあります」
「多くのギャラリーの集客に成功して、R&Aに話を持っていくためのバックボーンができました。大会開催中には、ビッグイベントを行うためのインフラが整っているかを調査するために、R&Aから数名のスタッフが派遣されてきました」
「その際にはスタンドはあまり準備していませんでしたが、我々はより大切なのは駐車場とコース上でどのようにギャラリーを動かすかだと考えていました。うまく運営できたと思います」
「欧州ツアーは大会開催の一週間前にチケットの販売を止めました。そのため、4日間合計で見込んでいた観客数は1万5000人程度。だえけど実際にはプロアマだkでその人数に達してしまったんです!」
キラキラの星屑
北アイルランドのような小国の場合、ビッグネームの存在が重要と考えられることも少なくない。例えばメジャー王者がそれにあたるが、北アイルランドは2011年以降に3人もそういったゴルファーを生み出している。
2011年からの2年間でグレーム・マクダウェル、ダレン・クラーク、ロリー・マキロイの3人のメジャーチャンプを生み出したのである。特にクラークは2011年に、マキロイは2014年に全英オープン覇者に輝いている。
「我々はザ・ノース・オブ・アイルランドという大会を開催しているのですが、これは選手育成に大きく役立っています。彼らもこの大会経験者です」
「ポール・マギンリー、パドレグ・ハリントン、そしてダレン。10ポンドを支払って参加している姿を見ていますが、現在の彼らを見てください」
「正直、当時を知っているだけに、今の大成功している彼らを見て、不思議な感じもします。でも彼らはみんな我々のためにいろいろなことをしてくれました。特にダレンは当GCのメンバーですし、全英オープン招致の際には尽力してもらいました」
コース改修
アイルランドオープンの成功を目の当たりにしたR&Aは、全英オープンをロイヤルポートラッシュへ帰還させることについて熟考していた。当時のピーター・ドーソンチーフエグゼクティブと、コースデザイナーのマーティン・エバートはロイヤルポートラッシュを訪れ、全英オープン開催可能なコースか否かの品定めをすることになる。2人はそのレベルの高さを認識した一方、コースの改修が必要だと判断する。
「クラブハウスに戻ってきた2人はこう言いました。『開催の可能性は十分あるのは確かだが、条件がある。しかしあなたにとっては嫌なニュースかもしれないが……』とエルスキンは振り返る。
「17、18番をなくしてスペクテーター・ビレッジを建て、代わりに谷の中に新しく2ホールを作ることを提案してきたのです」
「大改革と思いました。しかしいざメンバーに話を持ち掛けると、驚いたことに同意してくれたのです。そして工事が始まり、谷の中に2ホールを作りました。あの2ホールはモンスター級の、美しいホールに仕上がっています」
「親愛なるウィルマへ」
コースが様変わりし、ビッグトーナメント開催にも支障のないインフラであることも証明。ワールドクラスのトッププロが全面的にサポートし、新しいホールも完成予定となった。満を持して、ロイヤルポートラッシュが2019年大会の会場に選出されたことが発表される。
「部屋でこの朗報を聞いたのですが、ピーター・ドーソンに『公式招待状をもらっていない』と冗談まじりで話しました。ピーターは『誰宛てに書けばいいのか?』と聞いてきたので、『誰でもいいわ』と答えました。すると『親愛なるウィルマへ』と手紙を書いてくれたのです。とても嬉しいひと時でしたし、歴史的な瞬間でもありました」
「長い人生ですから冗談や笑いも必要ですよね。それもたかだがゴルフです。人の生死がかかっているわけではありませんから!」
ドリーム・カム・トゥルー
そしていま、開幕を目前に迎えている。残されたやるべきことといえば、選手を迎え入れて、大会の歴史に残るような死闘を繰り広げてもらうだけである。
「夢がついに実現するんです!感情に溢れる、とても特別な全英オープンになるはずです。開幕が近づくにつれて、それがさらに確信になっています」とエルスキンは笑う。
「インフラは問題ないですし、街はワクワク感に満ち溢れています。この小国北アイルランドで、世界でも最高規模のスポーツイベントが開催されるのですから!」
26年間。このプランは長いこと温められてきた。しかしロイヤルポートラッシュにしてみれば、大会前だが、その大業はすでに完成している。